たつのの有名人&達人

過去の有名人(文学・芸術)

藤原惺窩
ふじわら せいか
1561-1619
幼年時代に祝髪、僧侶東明に師事して景雲寺に学ぶ。後に儒教に帰す。自らが聖道を興すことを任とし、58歳で逝く。文学に功績があり、その著書として惺窩全集など多数ある。
多賀伊知子
たが いちこ
不詳
涙草の著者。龍野藩主京極高和に嗣子がなかったので、伊知子の子、頼母の助が養子として選定された。彼女は、我が子の出世を嬉しくもあり、また子との別離(江戸に下向)が悲しくもありという母親の複雑な思いと愛情を書き記した日記文学。
内海信之
うつみ のぶゆき
1884-1968
龍野名誉市民。幼少の頃から秀才であったが、蒲柳の体質の為、進学を断念。三木露風と親交があり与謝野鉄幹の明星に入り、石川啄木、北原白秋と交わり明星の花と謳われた時代があった。その後、西播木堂会を創設し会長となり政治運動に活躍する。また、青潮会を組織し、修養団体として活動した。著書は、詩集淡影、花、硝煙、憲政の巨人犬養毅氏など多数。
矢野勘治
やの かんじ
1888-1961
龍野名誉市民。明治13年、日山三木定七の次男に生まれる。秀才を認められ、矢野皆山の養子となる。39年東京帝国大学政治経済学科を卒業、当時財界の大御所、大蔵大臣の高橋是清に認められ、横浜正金銀行に入社。国内外の支店長を経て、昭和7年取締役となり東京本店常勤となる。一高時代に寮歌「嗚呼玉杯」、「春爛漫」を作詩し、一躍天下に謳われる。
三木露風
みき ろふう
1889-1964
龍野市名誉市民。17歳の時、詩集夏姫を発刊、19歳に「ふるさとの」を作詞、明治42年詩集廃園を出版。大正10年「赤とんぼ」を発表、昭和2年「赤とんぼ」の詩は山田耕筰の作曲で一躍有名になる。北原白秋と白露時代を築いた。
内海七郎
うつみ しちろう
1892-1972
地方紙「播磨新聞」を発刊しつつ、著作活動も手掛けた。著書に揖保郡誌、先哲偉人遺芳録西播編」などがあり、地方文化の発展に尽力した。
延賀 槐
のぶか えんじゅ
1894-1953
龍野町島田に生まれる。教諭であったが、俳人としての才能も素晴らしく、特に高浜虚子編新歳時記(三省堂)に取り上げられている四つの例句は天下の俳人たちが名句として知悉のものばかりである。
渡辺 均
わたなべ ひとし
1894-1951
龍野町立町に生まれる。龍野中学、京都三高を経て京大文学部を卒業。同年大阪毎日新聞に入社、学芸部副部長などを歴任。と同時に異彩の小説家としても知られ、花柳小説、祇園ものを手掛けた。主な著書は一茶の僻、蜘蛛、祇園風景など多数。
安田 青風
やすだ せいふう
1895-1979
太子町吉福の出身。大正10年から昭和2年まで龍野中学校の教諭。歌人として青年時代からその道に進み、「水甕派」に属し、優れた作品を発表。戦後は、関西屈指の短歌詩「白珠」の発刊主宰となる。
三木 清
みき きよし
1897-1945
写真哲学者。揖西町小神に生まれ、龍野中学、一高を経て京都大学に進む。卒論は、「批判哲学と歴史哲学」であった。大正11年ドイツに留学、13年フランスに移る。15年三高講師、昭和2年法政大学教授、17年陸軍報道班員としてマニラに赴任。20年3月28日に検挙され、奥多摩拘置所で獄死。著書は歴史哲学、パスカルにおける人間の立場、観念形成論など多数。
水守萍浪
みずもり ひょうろう
1899-1981
小学校教員を志望して御影師範学校に入学、事情により中退。株式界に身を投じ、龍野町にあった土屋商店に勤務、後に神栄証券に勤めた。一方、文学との関わりは少年時に始まり、短歌や小説に指を染めたが後に俳句一本に絞った。高浜虚子に師事し、俳誌「いひほ」の発刊・編集に当たり、本市俳壇の中心的存在であった。
犬飼 武
いぬかい たけし
1902-1976
明治35年岡山県高梁市に生まれ、大正14年関西学院英文学科卒業と同時に龍野高女に赴任、昭和24年まで在職。その後石海、揖西中学校の校長を務め、神戸山手女子短大で英語、文学を担当、学部長、図書館長を歴任した。長年龍野に住み、龍野高女の英語の先生として慕われた歌人。
丸山義二
まるやま よしじ
1903-1980
大正11年上京。苦学を重ねた結果、15年万朝報記者となり、約10年間記者生活を続けた。マルクス主義の影響と自らが農村出身であったことから農民の窮乏生活を描く作家となる。また、農業技術の書物を平易に書き改めたりして耕作技術の向上、農業振興に情熱を燃やした。当時、北に伊藤永之介、東に和田伝、西に丸山義二と言われた。
井上一夫
いのうえ かずお
1905-1990
神戸市兵庫区に生まれる。台湾銀行、日本銀行を経て、昭和26年兵庫県商工信用組合に入社、29年龍野支店の開設と同時に転勤、支店長として退職まで勤務。昭和31年「西播文学会」を結成し、季刊同人文芸誌「西播文学」を刊行。以降30年近く、その中心的存在であった。
石原 元吉
いしはら もとよし
1907-1993
龍野上霞城に生まれる。郷土史家として長年龍野藩史研究に取り組み、「郷土史龍野の揖保郡」、「城下町龍野物語」など、その他多数の著書を発刊。一方、いろいろな講演会や講座において郷土史の講師として活躍し、地域文化の向上、発展に尽力。
溝江十舎
みぞえ じゅっしゃ
1907-1985
龍野町北龍野に生まれる。小学校在任時に校長の内海青雲、教頭の延賀槐の勧めで句作を始める。以来俳歴60年、その間祇園句会、十文字川句会、水神句会などを指導し、龍野市民俳句大会の企画運営にも尽力。句集に「間歇泉」、「鮎」などがある。
林 鶴雄
はやし つるお
1907-1990
龍野町日山に生まれる。神戸の小学校に勤めるかたわら各地の展覧会に出品し、数多くの入選・入賞を見る。戦後、中霞城に10年間ほど住んでいたが、その後上京、さらに藤田嗣治を慕ってパリに渡り精進を続けた。画風は明るく、かつ汚れのない色彩感覚がその画の特色であった。特に子供の絵は、独自の画境を有し、追随を許さない。
野村 正
のむら ただし
1909-1990
龍野町上川原に生まれる。昭和6年上京、芸術院会員、佐藤清蔵の阿吽洞学堂に入門し、昭和8年日本美術院展に「太郎犬」が入選する。昭和18年阿吽洞堂学頭となり、福井東別院山門の彫刻、二科展無鑑査招待作家などで活躍。戦後は姫路市美術展、龍野市美術展の開設に力を注ぐ。昭和29年佐藤玄玄の天女像制作の助手として妙心寺の工房に入る。昭和35年に完成し、三越本店に安置される。
進藤 均
しんどう ひとし
1911-1993
龍野町大手に生まれる。龍野中学から「読売新聞」、「サンデー毎日」などに投句。昭和17年に処女句集「草清水」を発刊。同年「雲母」に入り、同26年「雲母」寒夜句三昧個人賞第一席受賞、後年「雲母播州句会」を創設し、「黒髪」、「妻恋」を発刊。
井戸誠一
いど せいいち
1916-1987
精神薄弱者救済に身をなげうって尽くすかたわら、郷土史の研究、創作活動に彼独特のタッチで数々の作品を残している。主な著書は「龍野ところどころ」、「赤松円心則村とその一族」など多数。
林 秀子
はやし ひでこ
1918-1991
犬飼武門下で水甕派同人。若年のころから文学の本質に深く触れ得た短歌を数多く詠んだ。寡黙であるが、その虚飾のない言葉は、標的を射て鋭かった。知的な雰囲気の中にもやさしく、女らしさが漂い、彼女の人柄を慕う人が多かった。

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制作:たつの文化活動促進運営委員会(TCC)|メールアドレス:jouhou@tatsuno.info