童謡の里 龍野 碑巡り

25「水谷亮采」の頌徳碑

■所在/龍野公園動物園の上 風外園内左
■建碑/昭和15年4月

亮采は風外と号し、文政6年(1823年)武技の家に生まれた。江戸に出て山鹿素水に兵学を学び、帰藩して藩校の軍学師匠になった。会津戦争には軍事奉行として新潟方面に出陣した。明治維新後は龍野県大参事となったが、明治4年廃藩置県となり、6年西播五郡組合立龍野中学校の初代校長になった。明治12年郡制が施行されると揖西郡々長になった。26年揖西、揖東両郡の合併が成立して初代揖保郡々長になり、行政手腕を振るった。明治30年に没し、行年75歳であった。

26「田中静壹」の紀功碑

■所在/白鷺山北側山麓
■建碑/昭和50年8月24日

明治20年、揖西町小神に生まれ、龍野中学から陸士、陸大と進み恩賜の軍刀を拝受した。陸大卒業後、英国オックスフォード大学に留学し、後に英国・メキシコ・米国の大使館付き武官を歴任した。陸軍きっての英国・米国通であった。昭和18年陸軍大将に栄進し、20年東部軍管区司令官となって終戦を迎えた。
大将は、第一師団、陸軍参謀本部等の若手将校が徹底抗戦を唱え、終戦の玉音盤奪取の計画を察知し、終戦の詔が出る8月15日の未明、決死の覚悟で乾御門に駆けつけて折から乱入せんとする青年将校を制し、「承詔必謹」を説いて反乱を未然に防いだのである。かくて無事正午に終戦の玉音放送が行われ、終戦の大混乱もなく平和日本の再建を迎えた。
大将は、マッカーサーが厚木飛行場に到着する8月30日の6日前の24日、従容として自決された。59歳であった。

たつの市の文化紹介『たつのへようきたったなぁ』
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