童謡の里 龍野 碑巡り

27「内海青潮」の詩碑

■所在/白鷺山西南の哲学の小径高台
■建碑/昭和43年4月
            揖西町小犬丸(昭和28年11月1日)から移築

内海信之は、明治17年揖西町小犬丸の酒造家内海藤三郎忠義の長男に生まれた。明治35年与謝野鉄幹の新詩社に入って詩人たらんとした。そのころは「泡沫」と号し、大正の初期、犬養木堂に私淑したころから青潮といった。
生来体が弱かったため終生小犬丸を離れず、秀でた才能に恵まれながら中央に名を残すこともなく埋もれたことは惜しまれてならない。
詩集には、明治43年結核でたおれるまでの詩集「淡影」があり、また生涯を通じて花の純潔を愛し、花にちなんだ詩を書いたので、昭和25年詩集「花」として出版した。この中の一篇「高嶺の花」は彼の最も愛好した詩で碑に刻まれている。昭和36年に出版された詩集「硝煙」は、明治37、8年、日露戦争たけなわのころに発表した21篇の反戦詩であり、トルストイの人道主義、平和主義の影響によるものといわれているが、当時、「明星」以外の「文庫」とか「新声」等につぎつぎ発表した詩である。
昭和17年、推されて揖西村々長に就任したが、20年、公職追放された。
昭和34年、龍野市名誉市民の称号を受けた。昭和43年6月14日、85歳の生涯を閉じた。

28「三木 清」のレリーフと歌碑

しんじつの 秋の日てればせんねんに心をこめて 歩まざらめや

■所在/白鷺山南の哲学の小径沿い
■建碑/昭和39年11月3日

清は、明治30年揖西町小神の三木清助の長男に生まれ、龍野中学、第一高等学校から京大の哲学科に進み、西田幾多郎門下となった逸材である。3年間のドイツ留学でハイデッガーに学び、大正14年帰国して名著「パスカルに於ける人間の研究」を出版した。三高講師を経て昭和2年法政大学哲学科主任教授になった。昭和5年に日本共産党に資金提供の嫌疑で検挙され、執行猶予となったが、一切の教職から身を引き、民間哲学者として終始した。昭和14年に出版した「人生論ノート」「哲学ノート」は戦地に赴く若き学徒の鎮魂の書として愛読されたという。
終戦の昭和20年3月、脱走した共産党員の旧友に食事と衣服を与えたことが、治安維持法に触れて投獄され、9月26日、豊多摩の拘置所で悲惨な獄死を遂げた。49歳の生涯であった。

たつの市の文化紹介『たつのへようきたったなぁ』
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